密教の不思議な話 その8 (後編)

お不動さん

2016年05月20日 13:54


法を求め、法を広め、国の安泰を想い、民を利するため総てを密教に捧げて40年の歳月が過ぎた。真言密教は、日本の隅々まで行き渡った。やるべきことはすべてやり遂げた、大阿闍梨空海は、高野山に戻り即身成仏とゆう、最後の大仕事に取り掛かった。




お大師様は、弟子達に最後の言葉を伝えた。自分の寿命を宣言した。
835年3月21日 弘法大師空海は、永い長い定に入った。

弟子達は、お大師様の言葉に従い高野の東の峰に導き、手厚く供養しました。

入定の知らせは、すぐ朝廷に伝わりました。淳和上皇から弔書が送られ、嵯峨上皇は詩を下賜した。仁明天皇は、弘法大師の入場を悲しみ高野山に喪料を送った。

お大師様は、入定したのであって、生きている。死んでいない。入定とは、瞑想を実践することで、いつしか不死の命を獲る意味に転じた。初めは、「入滅」と表現されたが11世紀に「入定」に変わり今に続いている。

49日に、弟子達は師のいる峰に登った。お大師様のお体は腐敗もなく今でもご健在のように髭や髪まで伸びていたのである。

弟子達は、改めて師僧お大師様の偉大さ感じ感動と共に、お大師様がいつも自分達と共に居てくださる喜びが、悲しみの淵から、立ち上がらせたのである。




以来、お大師様の給仕は一日二度、運ばれています。
お大師様は、いつもあなたの側に居て下さいます。「南無大師遍照金剛なむだいしへんじょうこんごう」と、唱えて下さい。背中を押してくださいます。




921年の頃 時の帝 醍醐天皇は、不思議な夢をみた。

弘法大師が夢枕に立ち、百人一首の歌を詠んだのだ。
「たかの山結ぶ庵の袖朽ちて苔の下にぞ有明の月」

すなわち、「衣が破れているので、新しい御衣をいただきたい」とおつげになったのです。

驚いた 醍醐天皇はさっそく「弘法大師」の諡号(しごう)を宣下された。東寺の観賢(かんげん)僧正に(東寺九代長者、醍醐寺初代座主、高野山六代目座主を努めた高僧)命じて、勅書と法衣を高野山に届けさせた。

観賢僧正はお山(高野山)に登り、御廟の石室を開けました。暗く霧が濃くお大師様の御姿を拝することができませんでした。




観賢僧正は、ご自分の不徳をなげき、一心に祈られました。すると、立ちこめた霧が晴れるようにお大師さまが御姿を現わされました。

なんと、お大師様が生けるがごとく端座し、鬢髪が膝に達するほど伸びていたのです。

いまでも高野山では、御衣替えが行われています。




お大師様は、真言密教を大成し、日本の仏教に大きな足跡を残した天才。
高野山の奥の院で今でも、これからも済生利民、密厳浄土具現の為に、私達を導いて下さります。

お大師様を感じたければ、四国霊場や高野山奥の院御廟に是非、御参詣下さい。
必ず、お大師様を肌で感じます。
そして、「南無大師遍照金剛」とお唱え下さい。            合掌















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