【加持感応(かじかんのう)―真言と如来の不思議な力―】
【加持感応(かじかんのう)―真言と如来の不思議な力―】
<三力偈(さんりきげ)>
真言という不思議な霊的な力をもったことばに対する信仰があるが故に、真言密教というわけになります。
種々の霊性的存在や真言の不思議な力を認めないと、護摩や儀式は単なるイベントやパフォーマンスになってしまいます。
このような世界観を表したものが三力偈(さんりきげ)です。
以我功徳力(おがくくどりき)
如来加持力(にょらいかじりき)
及以法界力(ぎょういほうかいりき)
普供養而住(ふくようにじゅう)
如来加持力(にょらいかじりき)
及以法界力(ぎょういほうかいりき)
普供養而住(ふくようにじゅう)
この偈文は、自分の努力、すなわち仏教の教えを信じ精進する力と、如来から与えられる不思議な力、両者の力が合わさった法界という宇宙全体の力をもって、ありとあらゆるいのちを供養し続けるという意味になります。
真言密教とは、自力と他力が合わさった力でもって、有情を救済し続ける教えです。
<法身説法と如来の不思議な力>
真言密教とは、結局はバラモン教やヒンドゥー教と同じなのではないか、民衆の願いを神々との間で取り成す役割を担う祭官と同じなのではないか、と想われる方もいるでしょう。
ある一面ではその役割を担っています。
真言宗の各寺院では、有情の願いをなんとか成就できるようにと、僧侶は護摩祈祷や三密行を修します。
根本的な違いは、どのようなものにも実体を認めない空を中心に据えていることです。
霊性とは、私たちの目には見えないけれど「何か」としてあるもととして据えますが、これには実体はありません。
その在り方として如来の慈悲が顕現されたりすると考えられます。
不動明王は、大日如来の化身(教命輪身)で、どうしようもない者を左手の縄でつかまえて、慈悲をともなった怒りの剣で改心させるために、大日如来が別の形で現れたものです。
真言密教では、大日如来自身が説法を常にしているとも考えます。
これを法身説法といいます。
法身とは、縁起の法の本体です。
その法は、私たちの目の前で展開されますから、常に教えが私たちに示されていることになります。
あらゆる現象は互いに影響しあっていますから、この世界は互いに響きあって成立しているとも考えられます。
響きとは音であり、真理を示したものが真言です。
法身説法とは、絶えずこの真言が私たちに響き、語りかけていることを表します。
このような法が常に私たちに語りかけており、全ては空であると観ることができること自体が、如来の慈悲による不思議な働きであると考えます。
なぜなら、そもそもお釈迦さまが法を観られて、慈悲によって説法を始められたことが、不思議な行いだからです。
しかし、真理は常に自分自身に、そして、自分の目の前に間陳されているのにもかかわらず、愚かな有情は無明に覆われているために、実体がないものに名前をつけ、いつでも自分や自分の周りのものが在り続けると思い込み、そして、苦しみます。
このように、無明に覆われている有情は、如来の説法に感応することができないため、秘密の教えといわれます。
次回は、【加持感応(かじかんのう)―真言と如来の不思議な力―】 <灌頂と真言密教の真髄>になります。
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