【臨終のときに阿弥陀さまは迎えにくる!?】 その2
人生の節目や岐路に立ったときに、その分野の仏さまにお願いして「甘えて、力づけて頂く」智慧を学ぶブログです。
今日の阿弥陀信仰(浄土信仰)は中世のそれから発展したものですが、現世の幸福とは別次元の幸を願う者といってよいでしょう。
ただし、他力本願の阿弥陀信仰では、「阿弥陀の本願」への信心が必要なのです。
神格化されたさまざまな如来や経典を信じれば「極楽往生」できるとの教えは、たとえそれが方便(=悟りに近づかせる方法)だったとしても、信仰の形態として “一神教”と大して変わりません。
結局は、現代に生きる私たちにとっては、極楽浄土や阿弥陀如来の存在そのものを信じられるか、どうかが分かれ道になります。
信じられるひとは幸いですが、現代では不信任者の多維持代です。
そこで、もう一度、武教の原点に戻って、大乗仏教の経典や教義を文字どおり受け取ると、色々とつじつまの合わないことや、現代人の感覚に合わないことがでてきます。
その意味するものもが何かを考えることが大切なのです。
例えば、地獄も極楽もこの世と別にあるのではなく、私たちの心のなかにある。
地獄を極楽に変える芽も、私たちすべての心にあります。
いまを、精一杯に生きることでその芽を育て、最期へと向う心構えができるのです。
つまりはそれが、阿弥陀如来という仏さまの意味するところなのかもしれません。
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ブログ内の質問や相談は、勝龍寺ホームページ内の、お問合せからお入り下さい。
http://www.shouryuji-raihousan.com/index.html
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ただし、他力本願の阿弥陀信仰では、「阿弥陀の本願」への信心が必要なのです。
神格化されたさまざまな如来や経典を信じれば「極楽往生」できるとの教えは、たとえそれが方便(=悟りに近づかせる方法)だったとしても、信仰の形態として “一神教”と大して変わりません。
結局は、現代に生きる私たちにとっては、極楽浄土や阿弥陀如来の存在そのものを信じられるか、どうかが分かれ道になります。
信じられるひとは幸いですが、現代では不信任者の多維持代です。
そこで、もう一度、武教の原点に戻って、大乗仏教の経典や教義を文字どおり受け取ると、色々とつじつまの合わないことや、現代人の感覚に合わないことがでてきます。
その意味するものもが何かを考えることが大切なのです。
例えば、地獄も極楽もこの世と別にあるのではなく、私たちの心のなかにある。
地獄を極楽に変える芽も、私たちすべての心にあります。
いまを、精一杯に生きることでその芽を育て、最期へと向う心構えができるのです。
つまりはそれが、阿弥陀如来という仏さまの意味するところなのかもしれません。
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