密教の不思議な話 その6
空海様は、唐から至上の法を伝授し持ち帰った。だが留学期間を切り上げて帰朝した者に、都入りは許されなかった。そんな時に、未曾有の国難が日本におそう。混乱した世情で、空海様の密教修法が、驚くべき法力を発揮し始めた。

「南無」と信じる心を開いて「大師」お大師さまに守られて「遍照」他人に対して優しい思いやりを持って「金剛」自分自身に厳しく
三国伝来の正系の密教を伝授された空海様が、生きて再び祖国日本の地を踏んだのは、806年10月の事である。
田浦から大宰府に着いたら、早速に唐から持ち帰った宝を整理して「御請來目録」を書き上げた。この素晴しい宝をもってすれば、日本は今までとは違う国に生まれ変わると確信していた。目録の冒頭に、早く一日でも早く、この目録を帝にお見せ申し上げたいと訴えていた。
そんな想いとは反対に、留学期間を切り上げ帰国した犯罪者である。朝廷は入京を許さず 大宰府・観世音寺に留まるように伝えた。
ただじっと寺に篭る人ではない。九州の山々を巡り、四国にも渡り今後の密教の普及を模索した。多くの庶民と接しているうちに恵果阿闍梨から託された密教の普及の使命感を改めて感じていた。
密教の普及は、人々の為、日本の発展の為に密教の修法を持って衆生を救う「済生利民 さいしょうりみん」(生命や生活を救済し人々のお役に立つこと)が目的で、最終的には「密厳国土」(密厳浄土とは? 世界宗教用語。 密厳経などに説く,大日如来の浄土。真言密教で,「三 密によって荘厳(しようごん)される浄土」の意に解し,実はこの世界がそれにほか ならないとする。密厳国土。密厳仏国土。 >>『三省堂 大辞林』)にする事である。

都では、朝廷の内紛が起きていた。平城天皇は突然、位を弟に譲り、帝は嵯峨天皇となっていた。世の中は未曾有の困難に陥っていた。薬子の変が起きていた。
薬子の変(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件。平城上皇と嵯峨天皇と対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。現在は、教科書などで「平城太上天皇の変」と表現される。

先の帝は、薬子とともに平城京にいて、都を奈良に戻そうとしていた。このままでは帝が二人になる危機がある。
嵯峨天皇は、以前に朝儀で聞いた密教を持ち帰ったという、唐で天才と評判たった留学僧空海に鎮静できるか賭けてみようと思っていた。
809年7月、空海様は嵯峨天皇のところに呼ばれた。

帝の前に空海様が参上した。帝は言った。「最澄のもたらした密教と違い、秘法中の秘法と聞く。この国を救うことができるか。」
お大使様は、唐の安禄山の変を平定した不空金剛を例に出して密教の修法を説き、鎮護国家の大法「仁王経法」を修することを約束した。
早速に高雄山寺に入山して修法を何日も何日も不眠不休で、国の為、民の為、全身全霊で祈祷した。
法験は顕れ見事に変は平定された。お大使様の評判はまたたく間に全国に広がり、帝の絶大な信用をかち得た。
密教普及の基礎を固めたお大師様は、816年に密教根本道場を探す旅にでた。
ある日、大和国(奈良県)宇智郡(五條付近)で、白黒二匹の犬をつれた狩人に出会い「どこに、行かれる」と尋ねられました。そこで、お大師様は「伽 藍を建てるのにふさわしい場所を求めて歩いています」と答えられました。すると狩人は、「ここから少し南の紀州(和歌山県)の山中に、あなたの求めている よい場所があります。この犬に案内させましょう」といって、そのまま姿がみえなくなりました。こうして不思議な狩人に導かれ高野山にいたりました。

山中にとても広い平地が広がっている場所が在りました。お大師様がふと松の木の枝に光るものを見つけました。よく見ると唐を出発する時に祈願し願かけした三鈷杵(飛行三鈷杵)であることが分かりました。

お大師様を導いた狩人は、高野山を守護する狩場明神であった。その後高野山の地の神、丹生明神(丹生都比売命)からこの地を譲り受けたのです。

お大師様は、この二柱の為お社を建立いたしました。高野山の壇上伽藍にあります。

お大師様は旅から戻り、さっそく帝に高野山下賜を願い出て、許しを得た。ようやくここにお大師様は、「密厳国土」の具現へむかって大きく一歩前を踏み出しました。