密教の不思議な話 その7 (前編)
密教は着実に日本に根を下ろしはじめた。空海様の名声も日に日に高まる。超人的な行動力をもって、修法、寺の運営、布教、膨大な仕事と多忙をきわめるなか、蜜厳浄土の具現化に邁進する。

お大師様は、嵯峨天皇から信頼を得てからは学識豊かな文人、密教をもたらした験力ある阿闍梨として日に日に名声が高まり、弟子も増え名実ともに仏教界の重鎮となった。
一人の真言僧として、驕り高ぶる事無く世の為、人の為、密厳浄土の具現を目指して活動を続けていた。
嵯峨天皇から、高野山を修行道場として許可を得たお大師様は自らの修行と、後人の育成に専念したいが多忙の為、山篭りできなかった。そこで、高野山の造営は、弟子の実慧、泰範に任せた。(泰範・天台宗最澄に師事し、師の代わりに空海様のもとで密教を学んでいたが、やがて空海様の門下に入った。)
讃岐国多度郡の満濃池の修築別当になってほしいとの要請を受けたのが821年5月であった。この池は、8世紀の初頭に灌漑用として開鑿された人々の命の源だった。周囲20キロの日本一の貯水池で池とゆうより海である。地形的に悪条件で、たびたび決壊を繰り返していた。
朝廷は、土木工事の専門家を派遣し修繕にあたらせていたが数年経ていたが、見通しすら立っていなかった。頭を悩ましていた讃岐の国司は、お大師様の深い学識を聞き、是非に派遣してほしいと、朝廷に願い出たのです。なによりも、自国出のあの方なら、必ず自分達を救って下さると讃岐の民衆も待ち望んでいたのです。
「人々が私を呼んでいる」 お大師様は、幼い頃からこの池の決壊がもたらす悲劇、民衆達が創造を絶する苦しみを知っていたのです。数人の弟子を連れて讃岐に旅立った。
池を工事する為に集った人々の前にお大師様は言った。
「これから、3ヶ月でこの池を強い海にするのだ。皆の中には、それをなし遂げる広大無辺な力が潜んでいる。その力をもってすれば、絶対に達成できる。」
あまりにも無茶苦茶とも思えるお大師様の言葉に人々は動揺したが、あの方がおっしゃるのなら、きっと出来るはずだ。皆、お大師様の言葉を信じ共感した。

技術的な指導を指導した後、池を見下ろす岩に護摩壇を築き、護摩祈祷をおこなった。ここに天地宇宙の広大無辺の力を集め、お大師様は工事終了まで眠らずに祈祷した。
厳しい大工事であったが、お大師様の法力により励まされ、ついに池は修築されました。

感涙に満ち溢れる人々の様子を見て、お大師様は 「ここは、密厳浄土となった・・・」と呟いた。